プライベート・セッション

shit_pieのセラピーブログ。

オリジナル・ラブ - L (1998年) by 小鉄 (BOOKOFF Zombies pt. 1)

 以下のテクストは、ぼくのタンブラー・ブログに掲載していた「2016年のリスナーのための1990年代J-POPディスク・ガイド――BOOKOFF Zombies and Survivors」からの転載です。全三回掲載した通称(というか、自称)「ブックオフゾンビーズ」は、小鉄と方便凌とぼく、天野龍太郎の三人がそれぞれ90年代のJ-POPアルバムをひとつずつ論じた、9つのテクストから成っていました。これがなかなかおもしろいので、このままにしておくのはもったいないと思い、このはてなブログに転載した次第です。ぼくが暇なときにひとつずつ、ゆっくりとしたペースで順次転載していく予定。……もしかしたら「ボーナス・トラック」もつくかも?

 

日本中のBOOKOFF Zombiesたちへ

 最近、思うところあって映画『ラブ&ポップ』を観た。庵野秀明が初めて監督した実写映画だ。ごく普通の女子高生が運命的な出会いを果たしたトパーズの指輪を「その日のうちに」手に入れるために(なぜなら「明日」ではその指輪が欲しいのかどうかわからなくなってしまうから)援助交際を重ねる、というのがあらすじで、家庭用の、当時では珍しかったデジタルビデオカメラの機動力を駆使しつつ(ときにカメラは俳優の腕や頭部に取り付けられた)、アダルトビデオ(言わずもがなハメ撮り)の影響を多分に受けながら撮られたこの映画は、1990年代の東京を舞台とした似非ヌーヴェル・ヴァーグのような空回り気味の実験精神とみずみずしさを湛えたストレンジな作品となっている。

 『ラブ&ポップ』が映す1997年の渋谷の街は、2016年の渋谷とほとんど同じに見える(マークシティが未だ建造中だったりと、多少のちがいはもちろんあるものの)。少女たちが持っているものはスマホではなくポケベルだが、それとLINEにどれほどのちがいがあるのだろうか。渋谷の援交少女は、秋葉原のJKリフレ嬢になった。ただそれだけだ。80年代は遠くなりにけり。だが、90年代は、いまも街とそこにいる人々を覆っている。『ラブ&ポップ』を観て、ぼくはそんなことを思った。そういえば、もう何年も前から様々なジャンルで90sリバイバルは叫ばれている。だから、2010年代が1990年代を引きずっているのではなく、90年代が回帰してきているのだろう。

 いまとちがって、幸か不幸か、90年代の日本は音楽とともにあった――「J-POP」と呼ばれる音楽とともに。そんな時代の音楽は、現在、インターネット上ではそれほど聞けない代わり、ブックオフという公共スペースにアーカイブされていて、280円とか500円とかでアクセスすることができる。時代の息吹を吸い込んだままの遺物=CDが山のように眠っている280/500円棚という魔境。その中で未だ不毛なディグを続けている友人たちに、いま聞くべき90年代のJ-POP作品とはどれかを訊いてみたいと思った。そこで、90年代を幼年期、そして少年期として過ごしたぼくとほぼ同世代の小鉄、方便凌の二人に、「2016年のリスナーのための1990年代J-POPディスク・ガイド」をつくってみよう、と声をかけてみた。その結果は以下の通り。ちなみに、この「ブックオフゾンビーズ」は全3回を予定している。最後まで楽しんでいただければ幸いだ。(以上、天野)

 

オリジナル・ラブ - L (1998) by 小鉄

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 KOHHは首にマルセル・デュシャンモナリザのタトゥーを彫っている。いつか自社ビルを建てたい、ゴッホやミロのような偉大な芸術家になりたい、という自らの上昇志向をあからさまに表明した楽曲“Living Legend”のビデオにもデュシャンの作品が映りこんでいる。

 小西康陽もまたデュシャンをリスペクトするエッセイを書いている。が、その内容はというと、30歳を間近になってなお親に仕送りを貰っていた小西康陽が、デュシャンは50歳になっても仕送りしてもらっていたという話を聞いて気が楽になった……というもの。

 かように、モラトリアムな価値観(と、バブル崩壊の影響が来るのが遅かった90年代の音楽業界)が支えていた渋谷系。そんな中でオリジナル・ラブ、もとい田島貴男だけは最初からオトナの風格を漂わせていた。初期のオリジナル・ラブピチカート・ファイヴ在籍時代の田島貴男は、現在の彼を知っているからこそまだ若くフレッシュに見えるが、それでもステージに立つ姿はすでに精悍で堂々としている。

 そんな田島貴男だからこそ、渋谷系の面々で、誰よりもいち早く、青春期の総決算か、あるいはイニシエーションとでも言うべき、内省的で鬱々しいモードに入った。それがこの『L』だ。

 前々作『Desire』でバンドからソロ・プロジェクトとなったオリジナル・ラブは、前作『ELEVEN GRAFFITI』で打ち込みを導入し、そしてこの『L』は更にそれを発展させた内容となっている。

 エイフェックス・ツイン“4”をもろに意識した小曲で始まり、実質オープニングナンバーである“水の音楽”は、タブラとストリングスとピアノが、湧き、流れ、渇いていく「水の音」そのものを演奏するかのような美麗なアレンジで、かつドラムンベースをここまで血肉化して取り込んだ日本語によるポップスはこの曲だけでは?と思わせる逞しいビートが素晴らしい。またシングル・カットされた“宝島”と“インソムニア”はヒップホップ・ビートにジャンクなシンセとギターという前作同様ベックの影響を感じさせるユニークなアレンジで、“羽毛とピストル”はボイス・パーカッション+アコギというシンプルなアレンジながら、当時傑作シングルを連発し翌年にはあの『ヴードゥー』をリリースするディアンジェロを思わせる濃密なセックス・ソング。

 と、サウンドは充実しながらも、全体に流れるムードは暗く、重く、そして虚しく、儚い。“ハニーフラッシュ”では援助交際の情事が描かれるが、同時期の、同世代男性アーティストによる援助交際をテーマにした楽曲(ECD“ロンリーガール”、岡村靖幸“ハレンチ”、スカパラ“Dear My Sister”など)がいずれも説教臭かったり、あるいはただ困惑しているだけの状態と比べると、ここで田島が描く「彼女ら」はひたすら虚無的で淡々としている。

 ごく普通の少女は「パートタイムの恋のハニーフラッシュ」で「ベッドタウンいちばんのプレイガール」に変身する。「動く遊歩道の上で手を握る」「ロンサムタウンは何度もかなしい魔法を信じるのさ」というラインの、虚無が匂ってくるような描写。

 これについて田島は、海外旅行から帰ってきた後、渋谷を通りがかった際、印象的だったのが「コギャル」たちの様子であったと語っている。かつて、オリジナル・ラヴ渋谷系とカテゴライズされた際には真っ先にそれを否定していた田島貴男は、そのブームから数年後の渋谷の光景に、いま歌うべきリアルを見出した、と言えよう。

 “神々のチェス”はその荘厳なタイトル通り、恋愛も人生も、自分自身の存在も、しょせん神が戯れに遊ぶチェスの駒でしかなく、その歴史が何百年と繰り返されるだけ……という諦観が語られる。後にも先にも田島貴男がここまで絶望的で遠大な世界観を語っているのはこのアルバムだけだ。

 ほんの少しだけ背伸びした、等身大の日常を切り取り、そこにさりげない輝きを見出すのが渋谷系の美学であった。『L』とは時代の曲がり角を意味している。内省的で、かつ一気に「神」にまで嘆きを飛躍するエヴァンゲリオン的センチメンタル。渋谷系で最もオトナだった田島貴男が時代の曲がり角で一瞬だけ、「渋谷系」から「セカイ系」へと転じたその極点をこのアルバムは描いている(先述の通り、そもそもこの人はずっと渋谷系とカテゴライズされることをずっと否定しているのだが)。

 なお、これ以降のアルバムについては、『L』の楽曲を更に激しく実験的にアレンジしたスタジオ・ライブやリミックス小西康陽も参加)したミニアルバム『XL』を挟み、田島は奇才ターンテーブル奏者L?K?Oとの出会い、更なる問題作『ビッグクランチ!』をリリースする。恐らく「接吻」のイメージから最も遠い、ミクスチャーからバラードまであらゆる音をグチャグチャにコラージュしてかつエネルギッシュなこの怪作を経て、田島貴男は現在に至るまでまた巷間によく知られる、良質なポップス職人として活動している。この時期を境に、田島貴男の顔は関根勤よりも藤岡弘、に似ているようになり、その存在感も声もよりダイナミックな進化を遂げる。一回引いてダッシュするチョロQの原理。鬱をぶっとばせ!!!!! (20 Feb. 2016)