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プライヴェート・セッション pt. 2

shit_pieのセラピーブログ。

『ビニール傘』 岸政彦

 

ビニール傘

ビニール傘

 

  フジテレビの「VS嵐」という番組を観ていたときのことだ。嵐のメンバー5人のチームに2人のゲストが参加していた。6人しかプレイできないゲームに際して、プレイヤーをくじ引きで決めていた。そのくじ引きに目が留まった。金色だか銀色の紙を貼り付けられ、強い照明を跳ね返してギラギラと光っている1メートルはあるであろう巨大な筒に、それ以上の長さの太い棒が人数分刺さっていた。なんなんだろう、あれは。テレビ画面からぼくの目を射抜き、刺した(ロラン・バルトが言う「プンクトゥム」のようなものだ)、あの不思議な見た目が忘れられない。あのくじは、だれがどのようにしてつくったのだろう? 大道具だか小道具の係? それをつくったひとはフジテレビの社員なのだろうか、それとも下請けの制作会社の社員? あるいは契約社員? アルバイト? どんなふうに思って筒にあのような装飾を施したのだろう? 彼/彼女はどんな生活をしているのだろう。月の手取りは? 何を思ってその仕事に就いたのだろう?

 近所の住宅街に奇妙な家がある。見たところ築5年から10年ほどしか経っていないであろういまふうの、建売住宅のような見ための3階建ての家だが、正面にはガラス張りの大きな戸口があって、なにかの店を以前やっていたような様子だ。しかし、その家の前を通ると異臭がするし、外見は長いこと放置されていたように汚れ、朽ちている。周囲にはゴミが散らばり、子どもが乗るような車の玩具が放置され、窓にはカーテンすら引いていない。あの家にはだれかが住んでいるのだろう? なんの店だったのだろう? わざわざ家を建て替えるかしてはじめた店は、いったいどうなってしまったのだろう? あの異臭は?

 ギラギラ光るくじと異臭を放つ奇妙な家は、ただそこにあってなにも語りはしない。

 この世界、社会に散らばり、ただそこにある文脈の剥ぎ取られたなにかの欠片――岸政彦の言葉を借りれば、「断片的なもの」「一般化も全体化もできないような人生の破片」(『断片的なものの社会学』)――からそこに関係した人間への、人生への想像力が時に掻き立てられることがある。こだまの『夫のちんぽが入らない』を読んでも思ったが、他人の人生とはどうしてこうも魅惑的で誘惑的なものなのだろう。しかし、それら断片的なものはなにも語りはしない。

 社会学者として聞き取り調査をおこなう岸の仕事がそういった誘惑とは無関係であるとは言えないだろう。初の小説集、『ビニール傘』もまた、その延長線上にあるように感じる。そこには、他者の人生を覗き見する快楽のようなものがたしかにある。そして「他者の人生を覗き見する快楽」という卑近さは、言わずもがな、小説というメディアが成り立っているその場所の地下深く、その根本に関わっている。

 「ビニール傘」にしろ「背中の月」にしろ、岸の文体は『断片的なものの社会学』とほぼ変わりなくドライで、ただそこにあるものを「ただそこにあるもの」として淡々と、客観的に描写するが、しかしその筆はからからに乾いているわけではなく、どこかほんのりとした微温のぬくもりがある。装飾的な、こう言ってよければ「詩的」な表現は数えられるほどしかない。詳述もせず、クローズアップもせず、適度に引いた視点から登場人物たちのむきだしの生がむきだしのまま読者に突き付けられる。例えばこうだ。

ベージュのニッカボッカと白いハイネックの長袖シャツ、足元は千円で買ったスニーカー。コンビニに寄るが食欲はわかずにすぐに出る。俺の生活は安いものでできている。どこかの貧しい国で大量に作られた粗悪品。派手なデザインのパッケージを開けると、かならずそこにはゴミみたいなものが入っている。俺たちは毎日、ゴミを食っている。 

 

俺たちが暮らしているのはコンビニとドンキとパチンコと一皿二貫で九十円の回転寿司でできた世界で、そういうところで俺たちは百円二百円の金をちびちびと使う。 

  装飾的な言葉がないぶん、「ビニール傘」は構成が見事にデザインされており、「背中の月」は幻惑的な時制に妙味がある。「ビニール傘」は2部構成で、コンビニの店員や日雇い労働者など複数の男性の視点が次々と切り替わっていく(一人称は「俺」で統一されている)第1部と、第1部の男性たちとどこかの場面で関わっているひとりの女性の物語の第2部とがある。妻を亡くした男の物語である「背中の月」では、早逝した妻との過去の記憶の断片の数々が、フラッシュバックとも言えないようなどろどろとはっきりしないかたちをもって男の現在に度々貫入してくる。

 「ビニール傘」で印象に残っている場面がふたつあって、ひとつはカップ麺の容器がエレベーターの中に落ちている、というところである。エレベーターにカップ麺のゴミを捨てるのは、「だらしないとか、そういう何かを超えているような気がする」「もっと何か攻撃的な感じ」だと男を考えている。もうひとつは海岸で鍵を拾う場面だ。キーホルダーもついていない「錆びついてもいない、普通の、よくある銀色の鍵」を男の恋人は拾ってポケットにしまう。エレベーターの床に打ち捨てられたカップ麺の殻。海岸に落ちている銀色の鍵。断片的ななにか。コード化不可能なプンクトゥム。アクチュアリティの硬度。岸の小説の核のようなものが、それらの場面で露わになっているような気がした。

 

新潮社から