読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

プライヴェート・セッション pt. 2

shit_pieのセラピーブログ。

『ラップ・イヤー・ブック』 シェイ・セラーノ/小林雅明(訳)

 

ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲

ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲

  • 作者: アイスT(序文),シェイ・セラーノ,アルトゥーロ・トレス,小林雅明
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 ぼくがラップ・ミュージックを聞きはじめたのはRIP SLYMEKICK THE CAN CREWオリコンチャートやテレビの音楽番組を賑わしていた頃で、今思えばそれは日本のラップ・ヒストリーにおける幾度目かの(とびきりポップな)黄金期だったわけだけれど、当時13歳の少年はそんなことを知る由もなかった。当然だ。なにせその頃は常に女子の目線が気になってしかたがなくて、頭髪にはギャツビーのワックスを塗りたり、身体には制汗スプレーを絶えず吹き付けていたのだから。『TOKYO CLASSIC』は近所のドン・キホーテのCDコーナーで台湾盤だかなんだかよくわからない逆輸入盤を買ったし、『magic number』はペットから木材までを商品として扱う巨大なホームセンターで買ったわけで(店舗よりも駐車場のほうが広かった)、雑木林で拾ったふにゃふにゃのエロ本でディックをビッグにしてた馬鹿な餓鬼が“業界こんなもんだラップ”や佐野元春の『ヴィジターズ』やさんぴんCAMPのことなんて知っているわけがなかった。

  当時(2002、2003年頃)、ラップはどこか遠い場所から来た違和感のある音楽などではなくじゅうぶんにポップなもので、郊外に住む中学生にとって他のJ-POPとミックスしてMDに録音し、親近感をもって聞けるものだった――“Grateful Days”のシングルなら駅前のブックスーパーいとうの100円コーナーに何枚でも売っていたのだ。

  中3になってようやく海外の音楽に興味を持ち出したぼくは、デイヴィッド・ボウイのファンを自称する同級生のHからアウトキャストの『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』を借りた(何度聞いてもわけがわかなかったし、おまけにケースを割ってしまって気まずい思いをした。その年の運動会では“Hey Ya!”が流された)。英語のU先生からはU2やマドンナやアッシャーがほとんど脈絡なく詰め込まれたMD3枚分ものミックステープを譲り受けた(そこにはラン・DMCエアロスミスの“Walk This Way”も収められていた)。最盛期を迎えていたラップ・メタルの祖としてリスペクトの眼差しを浴びていたレッド・ホット・チリ・ペッパーズは商機を逃さずにベスト盤をリリース(ぼくはバスケ部のFから「レッチリも知らないのかよ(笑)」と馬鹿にされた)。“ルーズ・ユアセルフ”は男子便所のアンセムで、DMXは『グランド・チャンプ』でスターの座に登り詰め、50セントは驚異の新人だった。誰もが『メテオラ』と『コリジョン・コース』と『チョコレート・スターフィッシュ・アンド・ザ・ホットドッグ・フレイヴァード・ウォーター』(『誰が音楽をタダにした?』でひたすら馬鹿にされていたリンプ・ビズキットだ)をMDプレーヤーで聞いていた。MP3の侵食は既にはじまっており、陸上部の先輩たちはCD-Rを焼いて交換しあっていた。 

**********

  『ラップ・イヤー・ブック』は、読むひとによってはそんなつまらなくてイカ臭い思い出を語らせてしまう本だ。なぜなら、ラップ史学者が常に取り零してしまう固有名詞をシェイ・セラーノは拾い上げているから。1979年から2014年までの35年間で1年に1曲を選ぶという特殊な構成によってありがちなラップ史の語り口を巧妙に避け、『ラップ・イヤー・ブック』は凡百のラップ・ヒストリー本のオルタナティヴたりえている。まだまだディスコやファンクといった音楽から未分化でしっかりと固まりきっていない半熟卵のような黎明期から、ラップ・ミュージックが再びドロドロと液状化していく(主にカニエ・ウェストやヤング・サグの手によって)35年後の現在までを1年区切りで均等に、同じ紙幅で語っていく――実に画期的で、ユニークなラップ史の語りかたを『ラップ・イヤー・ブック』は提示してみせる。もし『ラップ・イヤー・ブック』がなかったとしたら、誰がパフ・ダディのソロ・アルバムやマイク・ジョーンズの存在を思い出せただろう(2017年の今、パフ・ダディを聞く必要があるのかどうか、ぼくは知らない)?

 セラーノの語り口は独特だ。意味があるのないのかよくわからない大量の注釈をわざわざ付し(映画とドラマとバスケットボールネタが多い)、ラップへの愛憎入り乱れる捻れたユーモアでもって大いに無駄口を叩いている。だが、クリティックとしての視線は鋭い。例えば、ジェイ・Zの“Takeover”とナズの“Ether”の2曲を例外的に選んだ2001年の章で、2人のビーフとはアート(ナズ)と成功(ジェイ・Z)の対立だった、と喝破してみせる。2000年代以降ラップ・シーンのなかで存在感が増していく(遂には中心地となる)サウスを1991年にゲトー・ボーイズを選ぶことによって予見させる構成力も巧みと言うほかない。また、批評家としてよりもラップ・ファンとして並々ならぬ思い入れをもって語られるビギー、そしてトゥパックの1990年代半ばの章は感動的だし、メキシコ系である自身の出自からアフリカ系アメリカ人へ客観的な視線を向ける1989年の“Fight the Power”の章も白眉だ。ATCQの“Bonita Applebum”(1990年)とマックルモアの“Same Love”(2012年)はラップ・ミュージック、ひいてはヒップホップ・カルチャーに根付いている悪名高いセクシズムや女性蔑視、ゲイ差別についての章で、こういった議論はなかなか日本語で読める機会もすくない。安っぽい言葉をつかえば、『ラップ・イヤー・ブック』はラップ史に対してミクロとマクロ、双方からの視座を設けている稀有な書であろう。

 また、アルトゥーロ・トレスのイラストはテキストにイメージを与えるだけのはたらきを超えて本をゴージャスにしているし、ぱらぱらと捲っているだけでたのしく、時には笑える(ドレイクがろくろを回している絵なんて最高だ)。すべての章に他のライターからの反論として別の曲が挙げられているところも実によくて、これも歴史を複眼的な視点から見るという効果をうまくもたらしている。ぼくのように1900年代から2000年代までのラップ・ミュージックにまつわるくだらない思い出を持っているひとも、あるいはケンドリック・ラマーやヤング・サグに夢中になっている若者も、『ラップ・イヤー・ブック』はラップ・ファンなら全世代が必読の本だ。ただ、読んだだけでその曲のすべてがわかるわけではないので、Geniusのアプリ片手にリリックを丁寧に読み込んでいくことで本のおもしろみはぐっと増すことを最後に書き添えておく(例えばカニエ・ウェストの“Gold Digger”は当然、最後のヴァースの見事な反転を知っていてこそ、あの曲の重要性が理解できる)。 

 

DU BOOKSから