プライヴェート・セッション pt. 2

shit_pieのセラピーブログ。

さらば2017年。Buy Nowers Club Vol. 7のこととか。

去る12月27日はDirty Dirtさんと館脇くん主催のイベント、Buy Nowers Club Vol. 7にお越しいただきましてありがとうございました。最初はどうなることかと思いましたが、おかげさまで大盛況。zineも用意した冊数がギリギリだったということで、ご迷惑をおかけしたみなさまには申し訳ありませんでした。

壇上ではリラックスしていましたが、ひとまえでしゃべる機会なんてないので、なにをはなしたのかはあまりおぼえていません。ビールも飲んでいたし、適当なことも言ったかもしれません……。とはいえ、館脇くんがRVNG Intl.への愛を語ったり、LSTNGTさんもアツいコメントをしていらっしゃったりと、すごくいいイベントだったように思います。

今回はそのBuy Nowers Club Vol. 7のzineに書かせていただいた、2017年のフェイヴァリット・アルバム3の文章を転載します。STUDIO VOICEやremixを読んでいたころの気持ちを思い出しながら書いた、格好つけた文章ですが、もしよかったら読んでみてください。例年、フェイヴァリットの音楽はいくらでもあるのですが、ちょっとBNCのテイストに寄せた3つの作品です。

 

John Maus - Screen Memories

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2011年の傑作We Must Become the Pitiless Censors of Ourselvesから、気づけば6年もの月日が。いわずもがなアリエル・ピンクの親しき友人で、政治哲学者で、皮肉屋で(Pitchforkのインタヴューで炎上)、自称「極左極左極左」主義者。自作のシンセサイザーで奏でられるのは、ダークでドリーミーなシンセポップ。なのにどうしてこうも気味の悪い響きをしているのか、どうしてこうもアウトサイダー感が滲み出てしまうのか。ジョン・マウスの音楽は、ジェイムズ・フェラーロと田島ハルコとハイプ・ウィリアムズが共演しているかのようだし、イアン・カーティスが降霊した人生のようにも聞こえる。彼はライヴで、激しく頭を振りながら低い声で唸る。「オー、イェー!」。だがそれはちっともたのしそうには聞こえない。むしろ苦しみもがいているかのようだ。

 

Yves Tumor - Experiencing the Deposit of Faith

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イヴ・ツーマー(腫瘍)ことショーン・ボウイ。PANからリリースした2016年のSerpent Music(蛇の音楽)で脚光を浴びたクィア。そのファッションにはアルカを重ねずにはいられないし、事実、Hood by Airのショウへの参加経験も。その音楽はサンプリングの快楽主義に亀裂を入れる、いびつな脱構築ヒプナゴジック・コンクリート・ミュージックとでも呼ぶべきもの。あきらかにヴェイパーウェイヴの影響下にある霞がかったサウンドはビルボード・ホット100を独占するトラップやR&Bを茶化しているようにも聞こえる。ひっそりとリリースされたこの謎めいたデータ・コンピレーション(WAVとAIFFとが混在する雑さ)はアルカやガイカよりもザ・ケアテイカーやグルーパーと比較されるべき? そんな本作をTMTは2017年のフェイヴァリット第2位に選出。最近は坂本龍一のリミックス・アルバムに参加というニュースも。作品は否応なしに批評的だが、ライヴはフィジカル。

 

Downtown Boys – Cost of Living

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うまいとは言いがたいサックスがシンプルなフレーズを吹き、ディストーション・ギターががしゃがしゃと鳴り、ヴィクトリア・ルイズがスペイン語訛りで叫ぶ「壁は......ただの壁だ!」「ファック・イット!」。ダウンタウン・ボーイズは怒っている。なぜかって? 誰もこの理不尽に対して怒らないからだ。Sub Popとサインした極左バンド、ダウンタウン・ボーイズの新作のタイトルは“生活費”(ちなみに、前作のタイトルは“完全なる共産主義”)。言うならばこれはケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』やダルデンヌ兄弟の映画のパンク・ロック・ヴァージョンだ。いまもっともザ・クラッシュ、そしてジョー・ストラマーに近いのは彼女/彼らのはず。狂乱のパンク・ダンス・パーティーにこそ粗野なパワーが宿るのだ、醜悪な社会政治秩序や不均衡な自由主義を打ち壊すのだとダウンタウン・ボーイズは言う。フガジのガイ・ピッチオットがプロデュース。

 

いずれも400字弱の短評ですが、これぐらいの分量だと楽しく書けますね。亮太さんとのクロス・レヴューとなったシャムキャッツの“このままがいいね”についての文章もさっと書いたものですが、とても楽し書く書けました。

ほかにはChino Amobi、Jlin(このディケイドを代表する傑作でしょう)、Pan Daijing、Zola Jesus、Charli XCX、Equiknoxx、Fever Ray、Bibioアンビエント・アルバム、Visible Cloaksとかが候補でした。BNCでもはなしましたが、Yves Tumorも参加したMono No Awareは2017年を象徴するアルバムだったと感じています。で、これはele-king最新号で小林拓音さんが書いていらっしゃるとおりですが、ヒットした高田みどりの『鏡の向こう側』のリイシューなども含めて“アンビエント”というのは今年のキーワードのひとつだったのかなと。

あと、これは2016年におけるSkeptaの功績が大きいと思いますが、Stormzy、J Hus、Giggs、そしてゴッドファーザーWileyらに代表されるようなグライムやUKラップの躍進というのも印象に残っていますし、ぼく自身、彼らの音楽をよく聞きました。そのグライムやUKラップとコインの表と裏のような関係にあるのがダブステップやUKベース・ミュージック(これらの音楽との出会いにはele-kingの書き手である米澤慎太朗さんの筆に依るところが大きいです。Basic Rhythmも米澤さんが書いていらっしゃらなければ聞いていなかったかもしれません)で、わかりやすいところで言えばJam CityやKingdom、Bok Bokなのですが、そういったUKベースのサウンドはここ数年のエクスペリメンタル・ミュージックに多大な影響を及ぼしているように感じます。それは、ここ数年のUKベースを聞いていた若者たちがオルタナティヴな音楽をつくりはじめたということなのかなと思っています。

ところで、いまは米津玄師の『BOOTLEG』を聞いています。いままでのディスコグラフィーも聞いていましたが、もしかしたらこれがもっとも親近感の持てる作品かもしれません。あっ、紅白を観ないと。さて、“恋”も“前前前世”もなかった2017年、なにがこの国の“ヒット・ソング”と呼べるのでしょうか。“打ち上げ花火”、“ようこそジャパリパークへ”、“Likey”、“Dirty Work”、SHISHAMOの“明日も”……。考えてみると、意外とあるような、ないような。

基本的には海外の音楽ばっかり聞いているので、あいかわらずJ-POPや日本国内のロック・ミュージックの主流を占めるような音楽との距離感をつかみかねてはいますが、一方で心を震わされるような音楽との出会いも多くあります。今年出会った国内の音楽作品はMikikiの記事で挙げたとおりですが、2018年はPeople In The BoxFALSETTOS、Taiko Super Kicks、折坂悠太さん、SaToA、そしてラッキーオールドサンが傑作をリリースすることが約束されているのですし、楽しみでしかたありません。

特に折坂悠太さんの”芍薬”には驚かされました。歌唱にも、歌詞にも、演奏にも圧倒されます。

あとはThe World Will Tear Us Apartとharuru犬love dog天使の作品に期待しています。あっ、マーライオンも年頭に『ばらアイス』という素晴らしい弾き語り作品が出します。こちらはちょっとお手伝いさせていただきますが、ぼくのほうの進捗が……がんばります。

で、先のMikikiのリストでは書籍やなんかも挙げているのですが、それもパッと思いついたものを選んだだけのもので、不満足な感じを覚えたので、もうちょっと挙げておこうかなと思います。

 

東浩紀 - ゲンロン0 観光客の哲学

磯部涼 - ルポ 川崎

北田暁大栗原裕一郎後藤和智 - 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史

小林エリコ - この地獄を生きるのだ

田亀源五郎 - ゲイ・カルチャーの未来へ

ばるぼら、さやわか - 僕たちのインターネット史

ブレイディみかこ - いまモリッシーを聴くということ

ブレイディみかこ - 花の命はノー・フューチャー(リイシュー)

アイスバーグ・スリム、浅尾敦則 訳 - ピンプ アイスバーグ・スリムのストリート売春稼業(リイシュー)

川勝徳重 - 輪唱

こうの史代 - ぴっぴら帳(ノート) [リイシュー]

斎藤潤一郎 - 死都調布

 

熱心な読書家でもないので読んだものはたいして多くないですし、ほかにもいろいろと読んだような気がしますが、とりあえずリビングの横やデスクの上に積み上げられた本の山を見て、目についたものから選びました(不誠実なことに、読みかけのも混ざってます)。

これはちょっとしたディスですが、いくつかある山のひとつのいちばん上に乗っている大澤聡編著の『1990年代論』はぜんぜん納得のいく内容じゃなかったなとふと。伝説化したり、神話化したり、ノスタルジーに浸ったりするわけじゃありませんが(さいきんのバブルノスタルジーはほんとうに気味が悪いです)、1990年代の文化ってあらゆる意味でもっと豊かだったと思います。とはいえ、巻頭の東浩紀速水健朗と編著者の鼎談はなかなかおもしろく読めました。

リストに挙げた小林エリコさんの『この地獄を生きるのだ』は友人の方便凌が編集したもの。田亀源五郎さんの『ゲイ・カルチャーの未来へ』はこれまた友人の木津毅さんの編集です。その方便や木津さんに限らず、周囲の友人たちや仕事で出会うかたのはたらきぶりには刺激を受けています。怠け者なので。Twitterをだらだらと見ていたり、まどマギを見返してくさしたりしているんじゃダメだなと。はい。でも、音楽業界を見ていると、みんなはたらきすぎないようにしてほしいなとも思います。

今年は方便と四国、関西へ旅行したことが思い出深いです。ひとに会うために行ったようなものなので、ほんとうにいろいろなかたと出会うことができました。楽しかったです。小鉄岡村詩野さん、木津毅さん、らるぷりくん、タイザフィッシュさん、台車、神野龍一さん、ありがとうございました。ひどく怠けたニヒリストなので、展望も野心も特にありませんが、余計な悪態をついたりしないように心がけつつ、来年もどうにかやっていけたらいいなと思っています。

『ビニール傘』 岸政彦

 

ビニール傘

ビニール傘

 

  フジテレビの「VS嵐」という番組を観ていたときのことだ。嵐のメンバー5人のチームに2人のゲストが参加していた。6人しかプレイできないゲームに際して、プレイヤーをくじ引きで決めていた。そのくじ引きに目が留まった。金色だか銀色の紙を貼り付けられ、強い照明を跳ね返してギラギラと光っている1メートルはあるであろう巨大な筒に、それ以上の長さの太い棒が人数分刺さっていた。なんなんだろう、あれは。テレビ画面からぼくの目を射抜き、刺した(ロラン・バルトが言う「プンクトゥム」のようなものだ)、あの不思議な見た目が忘れられない。あのくじは、だれがどのようにしてつくったのだろう? 大道具だか小道具の係? それをつくったひとはフジテレビの社員なのだろうか、それとも下請けの制作会社の社員? あるいは契約社員? アルバイト? どんなふうに思って筒にあのような装飾を施したのだろう? 彼/彼女はどんな生活をしているのだろう。月の手取りは? 何を思ってその仕事に就いたのだろう?

 近所の住宅街に奇妙な家がある。見たところ築5年から10年ほどしか経っていないであろういまふうの、建売住宅のような見ための3階建ての家だが、正面にはガラス張りの大きな戸口があって、なにかの店を以前やっていたような様子だ。しかし、その家の前を通ると異臭がするし、外見は長いこと放置されていたように汚れ、朽ちている。周囲にはゴミが散らばり、子どもが乗るような車の玩具が放置され、窓にはカーテンすら引いていない。あの家にはだれかが住んでいるのだろう? なんの店だったのだろう? わざわざ家を建て替えるかしてはじめた店は、いったいどうなってしまったのだろう? あの異臭は?

 ギラギラ光るくじと異臭を放つ奇妙な家は、ただそこにあってなにも語りはしない。

 この世界、社会に散らばり、ただそこにある文脈の剥ぎ取られたなにかの欠片――岸政彦の言葉を借りれば、「断片的なもの」「一般化も全体化もできないような人生の破片」(『断片的なものの社会学』)――からそこに関係した人間への、人生への想像力が時に掻き立てられることがある。こだまの『夫のちんぽが入らない』を読んでも思ったが、他人の人生とはどうしてこうも魅惑的で誘惑的なものなのだろう。しかし、それら断片的なものはなにも語りはしない。

 社会学者として聞き取り調査をおこなう岸の仕事がそういった誘惑とは無関係であるとは言えないだろう。初の小説集、『ビニール傘』もまた、その延長線上にあるように感じる。そこには、他者の人生を覗き見する快楽のようなものがたしかにある。そして「他者の人生を覗き見する快楽」という卑近さは、言わずもがな、小説というメディアが成り立っているその場所の地下深く、その根本に関わっている。

 「ビニール傘」にしろ「背中の月」にしろ、岸の文体は『断片的なものの社会学』とほぼ変わりなくドライで、ただそこにあるものを「ただそこにあるもの」として淡々と、客観的に描写するが、しかしその筆はからからに乾いているわけではなく、どこかほんのりとした微温のぬくもりがある。装飾的な、こう言ってよければ「詩的」な表現は数えられるほどしかない。詳述もせず、クローズアップもせず、適度に引いた視点から登場人物たちのむきだしの生がむきだしのまま読者に突き付けられる。例えばこうだ。

ベージュのニッカボッカと白いハイネックの長袖シャツ、足元は千円で買ったスニーカー。コンビニに寄るが食欲はわかずにすぐに出る。俺の生活は安いものでできている。どこかの貧しい国で大量に作られた粗悪品。派手なデザインのパッケージを開けると、かならずそこにはゴミみたいなものが入っている。俺たちは毎日、ゴミを食っている。 

 

俺たちが暮らしているのはコンビニとドンキとパチンコと一皿二貫で九十円の回転寿司でできた世界で、そういうところで俺たちは百円二百円の金をちびちびと使う。 

  装飾的な言葉がないぶん、「ビニール傘」は構成が見事にデザインされており、「背中の月」は幻惑的な時制に妙味がある。「ビニール傘」は2部構成で、コンビニの店員や日雇い労働者など複数の男性の視点が次々と切り替わっていく(一人称は「俺」で統一されている)第1部と、第1部の男性たちとどこかの場面で関わっているひとりの女性の物語の第2部とがある。妻を亡くした男の物語である「背中の月」では、早逝した妻との過去の記憶の断片の数々が、フラッシュバックとも言えないようなどろどろとはっきりしないかたちをもって男の現在に度々貫入してくる。

 「ビニール傘」で印象に残っている場面がふたつあって、ひとつはカップ麺の容器がエレベーターの中に落ちている、というところである。エレベーターにカップ麺のゴミを捨てるのは、「だらしないとか、そういう何かを超えているような気がする」「もっと何か攻撃的な感じ」だと男を考えている。もうひとつは海岸で鍵を拾う場面だ。キーホルダーもついていない「錆びついてもいない、普通の、よくある銀色の鍵」を男の恋人は拾ってポケットにしまう。エレベーターの床に打ち捨てられたカップ麺の殻。海岸に落ちている銀色の鍵。断片的ななにか。コード化不可能なプンクトゥム。アクチュアリティの硬度。岸の小説の核のようなものが、それらの場面で露わになっているような気がした。

 

新潮社から

『ラップ・イヤー・ブック』 シェイ・セラーノ/小林雅明(訳)

 

ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲

ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲

  • 作者: アイスT(序文),シェイ・セラーノ,アルトゥーロ・トレス,小林雅明
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2017/01/06
  • メディア: 単行本
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 ぼくがラップ・ミュージックを聞きはじめたのはRIP SLYMEKICK THE CAN CREWオリコンチャートやテレビの音楽番組を賑わしていた頃で、今思えばそれは日本のラップ・ヒストリーにおける幾度目かの(とびきりポップな)黄金期だったわけだけれど、当時13歳の少年はそんなことを知る由もなかった。当然だ。なにせその頃は常に女子の目線が気になってしかたがなくて、頭髪にはギャツビーのワックスを塗りたり、身体には制汗スプレーを絶えず吹き付けていたのだから。『TOKYO CLASSIC』は近所のドン・キホーテのCDコーナーで台湾盤だかなんだかよくわからない逆輸入盤を買ったし、『magic number』はペットから木材までを商品として扱う巨大なホームセンターで買ったわけで(店舗よりも駐車場のほうが広かった)、雑木林で拾ったふにゃふにゃのエロ本でディックをビッグにしてた馬鹿な餓鬼が“業界こんなもんだラップ”や佐野元春の『ヴィジターズ』やさんぴんCAMPのことなんて知っているわけがなかった。

  当時(2002、2003年頃)、ラップはどこか遠い場所から来た違和感のある音楽などではなくじゅうぶんにポップなもので、郊外に住む中学生にとって他のJ-POPとミックスしてMDに録音し、親近感をもって聞けるものだった――“Grateful Days”のシングルなら駅前のブックスーパーいとうの100円コーナーに何枚でも売っていたのだ。

  中3になってようやく海外の音楽に興味を持ち出したぼくは、デイヴィッド・ボウイのファンを自称する同級生のHからアウトキャストの『スピーカーボックス/ザ・ラヴ・ビロウ』を借りた(何度聞いてもわけがわかなかったし、おまけにケースを割ってしまって気まずい思いをした。その年の運動会では“Hey Ya!”が流された)。英語のU先生からはU2やマドンナやアッシャーがほとんど脈絡なく詰め込まれたMD3枚分ものミックステープを譲り受けた(そこにはラン・DMCエアロスミスの“Walk This Way”も収められていた)。最盛期を迎えていたラップ・メタルの祖としてリスペクトの眼差しを浴びていたレッド・ホット・チリ・ペッパーズは商機を逃さずにベスト盤をリリース(ぼくはバスケ部のFから「レッチリも知らないのかよ(笑)」と馬鹿にされた)。“ルーズ・ユアセルフ”は男子便所のアンセムで、DMXは『グランド・チャンプ』でスターの座に登り詰め、50セントは驚異の新人だった。誰もが『メテオラ』と『コリジョン・コース』と『チョコレート・スターフィッシュ・アンド・ザ・ホットドッグ・フレイヴァード・ウォーター』(『誰が音楽をタダにした?』でひたすら馬鹿にされていたリンプ・ビズキットだ)をMDプレーヤーで聞いていた。MP3の侵食は既にはじまっており、陸上部の先輩たちはCD-Rを焼いて交換しあっていた。 

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  『ラップ・イヤー・ブック』は、読むひとによってはそんなつまらなくてイカ臭い思い出を語らせてしまう本だ。なぜなら、ラップ史学者が常に取り零してしまう固有名詞をシェイ・セラーノは拾い上げているから。1979年から2014年までの35年間で1年に1曲を選ぶという特殊な構成によってありがちなラップ史の語り口を巧妙に避け、『ラップ・イヤー・ブック』は凡百のラップ・ヒストリー本のオルタナティヴたりえている。まだまだディスコやファンクといった音楽から未分化でしっかりと固まりきっていない半熟卵のような黎明期から、ラップ・ミュージックが再びドロドロと液状化していく(主にカニエ・ウェストやヤング・サグの手によって)35年後の現在までを1年区切りで均等に、同じ紙幅で語っていく――実に画期的で、ユニークなラップ史の語りかたを『ラップ・イヤー・ブック』は提示してみせる。もし『ラップ・イヤー・ブック』がなかったとしたら、誰がパフ・ダディのソロ・アルバムやマイク・ジョーンズの存在を思い出せただろう(2017年の今、パフ・ダディを聞く必要があるのかどうか、ぼくは知らない)?

 セラーノの語り口は独特だ。意味があるのないのかよくわからない大量の注釈をわざわざ付し(映画とドラマとバスケットボールネタが多い)、ラップへの愛憎入り乱れる捻れたユーモアでもって大いに無駄口を叩いている。だが、クリティックとしての視線は鋭い。例えば、ジェイ・Zの“Takeover”とナズの“Ether”の2曲を例外的に選んだ2001年の章で、2人のビーフとはアート(ナズ)と成功(ジェイ・Z)の対立だった、と喝破してみせる。2000年代以降ラップ・シーンのなかで存在感が増していく(遂には中心地となる)サウスを1991年にゲトー・ボーイズを選ぶことによって予見させる構成力も巧みと言うほかない。また、批評家としてよりもラップ・ファンとして並々ならぬ思い入れをもって語られるビギー、そしてトゥパックの1990年代半ばの章は感動的だし、メキシコ系である自身の出自からアフリカ系アメリカ人へ客観的な視線を向ける1989年の“Fight the Power”の章も白眉だ。ATCQの“Bonita Applebum”(1990年)とマックルモアの“Same Love”(2012年)はラップ・ミュージック、ひいてはヒップホップ・カルチャーに根付いている悪名高いセクシズムや女性蔑視、ゲイ差別についての章で、こういった議論はなかなか日本語で読める機会もすくない。安っぽい言葉をつかえば、『ラップ・イヤー・ブック』はラップ史に対してミクロとマクロ、双方からの視座を設けている稀有な書であろう。

 また、アルトゥーロ・トレスのイラストはテキストにイメージを与えるだけのはたらきを超えて本をゴージャスにしているし、ぱらぱらと捲っているだけでたのしく、時には笑える(ドレイクがろくろを回している絵なんて最高だ)。すべての章に他のライターからの反論として別の曲が挙げられているところも実によくて、これも歴史を複眼的な視点から見るという効果をうまくもたらしている。ぼくのように1900年代から2000年代までのラップ・ミュージックにまつわるくだらない思い出を持っているひとも、あるいはケンドリック・ラマーやヤング・サグに夢中になっている若者も、『ラップ・イヤー・ブック』はラップ・ファンなら全世代が必読の本だ。ただ、読んだだけでその曲のすべてがわかるわけではないので、Geniusのアプリ片手にリリックを丁寧に読み込んでいくことで本のおもしろみはぐっと増すことを最後に書き添えておく(例えばカニエ・ウェストの“Gold Digger”は当然、最後のヴァースの見事な反転を知っていてこそ、あの曲の重要性が理解できる)。 

 

DU BOOKSから